『地獄の法』を読む

「石は池の底に沈み、油は池に浮く」という教えの真意とは

第1章 地獄入門

5 仏陀(ぶっだ)が考える「天国・地獄を分けるもの」とは

「石は池の底に沈み、油は池に浮く」という教えの真意

仏陀は「人が天国に行くか、地獄に行くかということは、その人の心と行いによるのだ。思いと行いによって決まるのだ」と言っています。

この行いのことを「業(ごう)」、「カルマ」といいますが、「この世に生まれて何を考え、何をしたかということで、その人自身の業というものが決まってくるのだ。カルマというのが決まって、そのカルマが来世を決定するのだ」これは仏教の基本です。

『阿含経(あごんぎょう)』の中に書いている例え話として、「ここに池があるとする。池の中に石を放り込んだら、普通は石は水より比重が重いから、底に沈むだろう。バラモン教徒たちが池の底に沈んだ石に『浮かび上がれ、浮かび上がれ』と言ったら、浮いてくるのか。浮いてこないだろう」とあります。

それは、その人の「業(ごう)」ということですが、この場合は、「罪」でしょう。「罪が重いために地獄に堕(お)ちていく者は、自己責任であり、こんな者は救えない」というわけです。

理性崩壊!?密室で彼にされた事

逆に、「では、今度は油の壺(つぼ)を池に投げ込んで、油を放り込み、『この油よ、池の底に沈め』とご先祖に祈ったら、この油は池の底に沈むのか。沈まないだろう。水の上に浮かぶだろう」これは比重が水より軽いということでしょう。

要するに、「罪が軽くて、浮くべくして水よりも上に浮いてくる者は天国に行くけれども、石のように比重が重くて、罪が重い者は沈むべくして池の底に沈む」ということです。これは「火を焚(た)いたり先祖に祈ったりするだけで救われはしない」と言っているわけです。

これはオールマイティーな教えではありませんが、ある意味、本質的な教えではあろうと思います。現代の新宗教でも、間違ったものは、ほとんど、ここのところで引っかかっています。

『地獄の法』p61〜64

阿含経

阿含経(あごんきょう、あごんぎょう、梵・巴: āgama, アーガマ)とは、最も古い仏教経典集(スートラ)であり、釈迦の言葉を色濃く反映した真正な仏教の経典ものとされる。 阿含(あごん)とは、サンスクリット・パーリ語のアーガマの音写で、「伝承された教説、その集成」という意味である。

この文章は仏教の根幹である縁起(えんぎ)、すなわち、厳密なカルマの法則、因果の理法について語っています。

つまり、『まいた種は必ず刈り取らなければならない』ということです。

善因善果、善因楽果、悪因悪果、悪因苦果、自因自果、よいことにはよいことが、よいことには楽が、悪いことには悪いことが、悪いことには苦しみがやってきて、自分のしたことはすべて自分に返ってくる、という永遠に変わらない真理です。

例え、この世で報いがこなくても、あの世に行けば、100%、自分のしたことの報いを受け取るということです。

一生、よい思い、よい言葉、よい行いで生き、人を害さず、人に優しかった人、いわゆる善人は死後、幸せな天国に行くことになりますが、一方、一生、悪い思いを持ち、悪い言葉を語り、悪い行いをして、たくさんの人を害し、傷つけ、苦しめ、てんとして恥じなかった、それどころか、人が苦しむのを何よりも喜びとしていたような、いわゆる悪人は、死後、暗黒の地獄におち、そこですさまじい拷問(ごうもん)を受けることになります。

ですから、一生、人や生きとし生けるものすべてに優しくして、決して害さず、世のため人のために役に立って生きることです。日々、心を清める努力をし、愛と奉仕、感謝と報恩に生きることです。

そして、悪い思いや悪い言葉や悪い行いはすぐに反省して、二度とそれを繰り返さないように努力することです。

大川隆法総裁は、「常に優しくあれ」「限りなく優しくあれ」と言っています。

すべての人、生きとし生けるものすべてに愛と慈悲の心で接し、優しくありたいものです。

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