
生命(いのち)の法―真実の人生を生き切るには (OR books)
生命(いのち)の法―真実の人生を生き切るには (OR books)より。
霊的世界では、魂の善悪がはっきりと判定される
あの世の霊的世界では、魂の善悪がはっきりと判定されます。つまり、昔から言われている通り、善人は天国に行き、悪人は地獄におちるということです。それは永遠の真理なのです。
善人が地獄におち、悪人が天国に行くということは決してありません。善人が地獄で地獄の苦しみにのたうち回ったり、悪人が天国で幸せに暮らすなどということはありえないことです。
あの世、霊的世界においては、善悪ははっきり分かれていて、善人が住む世界と悪人が住む世界ははっきりと分かれているので、善人と悪人が会ったり、つきあったり、一緒に暮らしたりなどということは決してありません。
善人は善人同士、天国で、仲良く平和に暮らしています。天国でも上に行けば行くほど、より美しく素晴らしい世界になっていて、そこに住む住人もみな寛容で、心が広く、愛あふれる素晴らしい人たちばかりです。そこに住む霊人はとても優しく、また、大切にされ、尊重されます。
一方、地獄は破壊と闘争の世界であり、大昔から、悪人は悪人同士、悪意と敵意、嫉妬と怒りといった悪想念に満ち満ちた世界で、お互いに害しあったり、傷つけあったり、悪口を言い合ったり、差別しあったり、いじめ合ったり、殺し合ったりなどしているわけです。
あるいは、一秒の休みもない地獄の拷問を受け続けたり、だれもいない真っ暗闇の世界で、周囲から完全に隔離されて、だれとも接触できないようにされて、一人で孤独に生きているわけです。
善と悪というものは、はっきりとあります。そして、天上界と地獄界は決して交わることはなく、はっきりと分かれています。
では、何が善であり、何が悪かというと、「仏の御心を守ることが善、また、仏の御心に反することが悪」だといえます。また、「黄金律を守ることが善、黄金律を破ることが悪」だともいえます。
黄金律とは、「自分がされていやなことは、他者に決してしてはならない」ということです。この黄金律を一生守った人間は死後、天国に行き、生涯にわたって、黄金律を破って生きた人間は死後、地獄におちます。
具体的にいうと、悪とは、すべて自分がされていやなこと、すなわち、殺すこと、暴力をふるうこと、攻撃すること、迫害すること、盗むこと、強姦すること、セクハラ、パワハラ、差別すること、傷つけること、害すること、からかうこと、迷惑をかけること、人を堕落させること、侮辱すること、悪口を言うこと、ウソをつくこと、おとしめること、あざ笑うこと、人の足をひっぱること、その他、自分がされていやなあらゆることです。
逆に、善とは、自分がされてほしいこと、すなわち、人に優しくすること、親切にすること、人を助けること、励ますこと、真理を教えること、教育すること、人を向上させること、ほめること、他者をいかなるかたちでも害さないこと、傷つけないこと、優しい笑顔、優しい言葉、体施、物施、法施、寄付、喜捨、その他、自分がされてほしいあらゆることです。
では、『生命(いのち)の法―真実の人生を生き切るには (OR books)』から引用します。
霊的世界では魂の善悪がはっきりと判定される
私は、霊的な覚醒(かくせい)を得て、宗教家の道を歩み始めて以降、さまざまな霊体験をしましたが、霊的な体験を通して最もよく分かったことは、「善と悪というものが、はっきりとある」ということでした。
この世においては、善悪を曖昧(あいまい)にする考えもありますが、霊的な世界において、善悪ははっきりと分かれています。
善なる生き方をし、善なる思いを持っている魂は、天上界に趣(おもむ)きます。反対に、善なる思いを持っていない魂、言葉を換えれば、悪なる思い、悪なる心で生きた魂は、天上界には入れず、地獄界に趣くか、この世に執着し、この世に近い所を漂うか、このどちらかになります。
「霊的世界においては、魂の善悪が、はっきりと判定される」という事実を知ったことは、私の悟りのなかで、一つの重要な判断基準になりました。
その人の魂全体について、善悪の判定は、迷うことなくなされていて、魂の善悪がはっきり分かれています。
天上界と地獄界は、接することはあっても交わることはなく、はっきりと分かれているのです。